本当はカテゴリ[食]かもだけど…

父の1周忌の法要を行いました。
亡くなったのは今年の1月中旬なので少し早いのですが、年内にやってしまうものらしいです。


ところで。
ウチの地元では一般に、自宅に壇を作って御前様(お坊さん)と近所・親戚の方々を呼んでお経を唱えたりします。
で、その後はお墓に行ってそこでお経にあわせ、1人ずつ線香とお米を備えて合掌し、みかんやバナナ等を少し食べます。
んで、帰りに供養の鐘を身内が撞くのですが、今回は2回、妹のダンナが撞きました。
それから、自宅に戻ってお食事会のようなものがあり、引き出物も渡して、終わりになりますです。
引き出物は、最近は、お寺に行ってる間に残った家人が届けてまわるケースが増えてるらしいですけど。


んで、今回。
法要の参加者は近所が10軒(絶対これ、多すぎだよね!)と、同じ地域内の親戚が7軒。
それに父の妹その1(単品)と、その2(夫婦で)。さらに私の妹夫婦(娘つき)が参加。
これに施主である母と、私が加わっての席となりますです。
自宅でやるには、ちと狭いし、それだけの炊き出しやったり食器を用意したりするのは骨が折れるです。
てなわけで、今回はお料理屋さんに出ることにしたのですが。
それだって大人数。いろいろ大変です。


法事って、形骸化してしまって悼む気持ちも意味もなく、単に惰性の決まりごとでやっている感じが否めません。
まぁ、葬式はともかく、○回忌ってなっちゃえば、親戚等が集まって親睦を深める機会を設けるためのものだという考え方もあるようですが。
食事や引き出物の事、あるいは親戚を集めたり集まったりする手間隙を考えると、しなくてもいいものなのかって気もしてきます。
お経が終わった後に、ちゃんと入れたてのお茶を振舞ってるのに、引き出物と一緒に缶のお茶をつけるとか。
会席で炊き込みご飯やデザートまで出るのに、黒飯や饅頭を出すってのも不思議。
我が家では、他所の法事で引き出物にいただいても、食べない事も多いので、特にそう感じちゃうのかもですが。
あと、せっかく出された料理を食べないで、わざわざドッグパックで持ち帰る(持ち帰るために残して食べる)習慣も不思議でした。
それならいっそ、席を設けず、まるまる仕出弁当とか用意して引き出物と一緒に配ればいいのにとか考えちゃう。


まぁ、それで。
私は今回も親戚(亡父の妹たち)と、ささいな諍いもどきを起こしましたが、表面上は穏やかに恙無く終了。
(一言も口を利かなかったので空気が重く冷たかったとか、その程度です)
あと。
会席料理には、お店が気を遣って、海老(紅白ゆえ)を使わずに帆立メインの料理を出してくれたのですが。
それに対して「私らは気にしないから、海老を出せばいいのに!」とか大声で繰り返してる姿に殺意のようなものを覚えかけましたが。
それもちゃんと聞き流しておきました。ちょっとオトナになった私☆


さておき。
もうすぐ1年、たっちゃうんだと思うと、感慨深いような、そうでもないような。
父の不在には慣れてしまったけど、なんとなく今もまだ「死んだ」という実感はない気がします。
前年は長期出張(ギ装のために造船所に詰めてた)のため不在がちだったのと、自宅で看取ったのが影響してるのかも。
でもそれ以上に、今でも生活や思考の一部に、父の存在の影響があるせいかもだけどね。
やっぱり、大好きだったなぁ、と、今ちょっとしみじみ実感(涙)



法事の後。
父の親友であり私もツーリング仲間だったりするオジサマと、車で1時間ちょっと先にあるお蕎麦屋さんに行きました。
父が見つけたお店で、元気だった頃は月1くらいのペースで通ってたからね。
供養だからと、遺影も持って行き、大好きだったお酒とおそばをこっそり供えたりして。
オジサマも、いろいろ語って、ちょっとお酒を飲みすぎたみたい。
帰りの車の中では寝てらっしゃったですが、なんとなく、車の中。
私たちだけじゃなく、もう1人分、気配があった気がしますです。
…なんかさ。
むしろこういう機会のほうが、本当の供養になりそうな気がするです。


それにしても。
非常に疲れる1日でした。